123.唐人墓(とうじんばか)










唐人墓竣工除幕式および慰霊祭
〔昭和46年9月28日〕

 唐人墓のある一帯の地名は冨崎と呼ばれ、かつて、その冨崎の地一帯には「サンビャクヌトウヌピィトゥヌハカ」(三百の唐の人の墓)といわれた墓が点在していました。それら唐人(中国人)たちが、そこに葬られていた背景としては、おおむね次のような経緯がありました。『球陽』などによりますと、1852年(咸豊2)に中国のアモイからアメリカのカリフォルニアへと向かうアメリカの商船・ロバートバウン号内で、乗っていた中国人労働者(苦力)たちが、清潔さを保つためとして辮髪(満州人の髪型で、頭髪の周囲をそり、中央の髪を長く編んで後ろへ垂らしたもの)を切られたり、病人を海中に投棄されるなど不当な扱いを受け、そのために報復に立ち上がり、船長などを殺害したとされています。そして、船はその後も航行を続けますが、途中、石垣島の崎枝近くで座礁し、乗っていた中国人たちが島に上陸したものの、その後、中国人380人とアメリカ人の船員1人を置き去りにして船は出航しています。置き去りにされたそれら中国人たちは、しばらくして対岸の冨崎の地に移されますが、その事件の展開は、後日、イギリスの艦船・リリー号やアメリカの艦船・サラトガ号などが、置き去りにされていた船員の救助や中国人の逮捕を目指して派遣され、そこで、イギリスとアメリカの武装した海軍関係者たちによって、中国人が、捕らえられたり殺害されたりしたとのことです。(記録の上からは、殺害された中国人は3人とされています。)ペリー提督が日本の開国を求めて、サラトガ号を含む4隻の艦船(黒船)で琉球を経て、浦賀に姿を見せる1年前のことです。その後、難を逃れた中国人たちは、1年余り島で保護・収容されますが、滞在中に病気などで死亡または行方不明となった人も多く、殺害された人も含めた死亡者は128人にものぼり、生存者は172人とされ、翌年の1853年(咸豊39月(旧暦)、中国に送還されています。(残り80人は、武装した関係者によって捕らえられたか、もしくは自発的に帰船したとみられています。)異国の地で亡くなった、それら中国の人びとの墓碑は戦後も残っていましたが、月日とともに少なくなり、残った一部の墓碑は石垣市立八重山博物館に保管され、昭和46年(19719月に現在の墓が造られています。また、当初、台湾との友好交流を内容とする碑文が掛けられていましたが、平成4年(1992)に史料に基づきながら碑文を新たに作り、掛け替えてあります。なお、唐人墓があるのは、沖縄県では、ここ冨崎と竹富町の小浜島、沖縄本島の恩納村(仲泊)などが知られています。











冨崎の唐人墓〔平成19年〕











唐人墓〔平成22年4月〕


文:松村順一
写真:大田将之ほか
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