
| 開拓移住 | |
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| 規格住宅が立ち並ぶフタナカの入植地 〔昭和30年〈1955〉。現在の明石集落〕 写真・市史編集室蔵 |
シートーヤー(製糖所)で遊ぶ子どもたち 〔昭和31年〈1956〉4月。平久保集落〕 写真提供・山里節子 |
太平洋戦争が終わると、戦前から中国大陸や南洋など外地に住んでいた人たちがどっと沖縄に引き揚げてきた。沖縄はどこの村も人びとであふれ、食糧難さえきたした。そのため沖縄本島や宮古島の人たちは、新しい移住地として八重山にやってきた。なかには読谷村からの移住者たちのように、米軍基地建設で農地を奪われた人たちもいた。 新天地を求めてきた人びとは、石垣島の北東部や、通称・裏石垣の各地に次々と入植し、新しい村を建設した。わずかばかりの身の回わり品を持って入植した人たちは、ジャングルに茅ぶきの仮小屋を建て、幾所帯かが合宿しながら木を払って焼き、畑地をつくってはイモなどを植えた。イノシシの害に悩まされ、マラリアが猛威をふるった。 石垣の街とは一日か二日に一回訪れるトラックで結ばれていたにすぎず、医療施設のない開拓地では、しばしば犠牲者を出した。それでも入植者たちは力を合わせ、歯をくいしばって開拓に打ち込んだ。 やがて学校を建て、共同売店をつくり、徐々に生活の向上を図った。パインブームで一息ついたものの、日本復帰前の長期干ばつや台風で村を去る人も出た。それにしても戦後の開拓移住は、王府時代以来の〃新村〃建設として歴史にその名をとどめた。(文・三木健) |
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| 島じまの風景 −昭和三〇年代− | |
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| 夕なぎのなか、静かに進む離島航路の帆船 〔昭和30年〈1955〉頃。石垣港地先〕写真提供・山里節子 | |
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ひっそりとたたずむ山々。満々と水をたたえた水田地帯。姿を見せはじめた開拓移住地の村むら―。昭和三十年代の八重山の島じまは、開発が本格的に始まる前の姿をとどめている。 その頃を境にサトウキビやパインが基幹産業として大きく伸び、水田が次々に畑に変わっていった。島じまの風景が戦前から戦後の一時期にかけての面影を残していたのも、あるいは昭和三〇年代までではなかったか。 悠然と帆をかかげて八重山内海をゆく帆船の光景も、田舎の道をゆくオンボロバスの姿も、その頃を境に姿を消してゆく。昭和四七年(一九七二)の日本復帰後に始まる大々的な土地改良などの公共事業で、島はその相貌を変えてゆく。林が農地や宅地に変わり、白砂が埋め立て地に変わる。戦後に残っていた原風景とでもいうべき島の光景が、急激な時代の波にさらされる。遠い昔の原風景は、いまは私たちの記憶の底に眠っている。(文・三木健) |
| 人家が点在する崎枝の移住地と一周道路 〔昭和30年〈1955〉頃〕 写真提供・山里節子 |
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| 勝連団の入植地と伊原間集落遠望 〔昭和30年〈1955〉頃〕 写真提供・山里節子 |
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| 竹富町の風景 | |
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| 干立集落の道と特色ある石垣 〔昭和33年〈1958〉8月。西表島〕 写真提供・本田安次 |
網取集落風景 〔昭和31年〈1956〉6月。西表島〕 写真提供・山里節子 |
竹富町の島じまは、西表島や小浜島を除くと、多くはサンゴ礁の島である。石の多い島じまでは、少ない土地を耕作地とし、きびしい自然環境のなかでの生活を余儀なくされてきた。屋敷を石垣で囲み、屋根を低くして台風の襲来に備えた。 人びとは生きるために力を合わせ、濃密な共同体社会をつくりあげてきた。きびしい生活のなかから神々への信仰が生まれ、祈りのなかから豊かな芸能をつくりあげてきた。島のいたるところに御嶽をつくり、神への感謝の気持ちを忘れなかった。「うつぐみや かしくさどぅ まさりょーる」(団結に勝る知恵はない)という竹富島の考えも、こうした風土から生まれたのであった。 しかし昭和四七年(一九七二)の本土復帰を前後して、島を離れる人が増え、島には急速に過疎化の波が押し寄せた。高齢化していく島社会。時代はいま、新たな島の方向性を模索している。(文・三木健) |
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| 与那国町の風景 | |
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| ナンタ浜と祖納集落遠景 〔昭和33年〈1958〉8月〕 写真提供・本田安次 |
祖納集落 〔昭和28年〈1953〉9月〕 写真提供・与那嶺イク |
ゆなぐにぬとぅけや いきぬみでぃぐくる くくるやしやしとぅ わたてぃいもり (与那国への渡海は、池の水心地、心安々 と渡って来て下さい) 有名な「どぅなんすんかに」の一節である。航海の難所といわれた与那国のイメージを、なんとか打ち消そうとする島びとの心情が伝わってくる。ナンタの離れに打ち寄せる白波は、島を目前にした船を寄せつけようとしなかった。そんな孤島性が、与那国の文化を育んできたのである。 茅ぶきに竹垣囲いの集落は、まだ昭和三〇年代までは健在であった。豊かな水田を育てた田原川が、ナンタ浜に注いでいる。その詩情豊かな光景は、八重山が生んだ音楽家・宮良長包の「なんた浜」の曲とともに知られる。 しかし、本土復帰後の生活の変化で、ナンタの離れは埋め立てられ、コンクリートの港に変わった。いまその港には「なんた浜」の詩碑が建っている。かつて詩情を誘った風景は、その碑のなかに刻まれ、静かに語りかけているようである。(文・三木健) |
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| 人びとの暮らし −昭和三〇年代を中心に− | |
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| パインの収穫風景 〔昭和38年〈1963〉8月。カラ岳付近〕写真撮影・久地岡榛雄 | |
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| 薪取りの帰り 〔昭和30年〈1955〉12月。平久保集落付近〕 写真提供・山里節子 |
キーパイ(田鍬)で耕起する農夫と火入れの光景 〔昭和31年〈1956〉頃。川原集落の北方付近〕 写真提供・山里節子 |
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昭和三〇年代(一九五五年〜六四年)は、旧来の農業社会が大きく変貌をとげた時代である。三〇年代前半は、まだ社会の各面に戦前の名残をとどめていた。主産業の農業ではまだ稲作が残っており、それにともなう文化も残っていた。 農家は馬や馬車で畑に通い、ユイ(結・相互扶助)にも従事した。畑では馬耕も行なわれ、屋敷内では黒豚を飼っていた。イモがまだ主食の時代で、家庭の主婦は井戸水で炊事をし、カマドで薪をたいて煮たきをした。 それが昭和三〇年代後半になると、農業や生活に変化が見られるようになった。稲作はサトウキビ作に変わり、山地ではパインが栽培され、空前のブームとなった。小型製糖工場やパイン缶詰工場が次々と設立された。畑にはトラクターも導入された。工場で働らく人たちが不足し、台湾や韓国から女工が季節労働者として導入された。一方では本土の高度経済成長で、中学卒業生の集団就職で本土に出て行く若者も増えた。 通貨(軍票)のB円が昭和三三(一九五八)年にはドルに切り換えられ、八重山もドル経済圏に組み込まれた。アメリカの沖縄支配が、ドルを通じて浸透した時代でもあった。(文・三木健) |
| 川での洗濯風景 〔昭和28年〈1953〉。西表島、古見集落〕 写真撮影・酒井卯作 |
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| 海と暮らし(戦後) | |
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| 沿岸で網漁をする漁夫たち 〔昭和31年〈1956〉頃。屋良部半島〕写真提供・山里節子 | |
![]() 水揚げされたカツオの浜での解体作業風景 〔昭和34年〈1959〉8月。波照間島〕 写真撮影・久地岡榛雄 |
石垣の四カ字(登野城・大川・石垣・新川)には、明治二〇年代末から沖縄本島の糸満からやってきた漁師が、浜辺に小屋を建て漁をしていた。それが次第に定住するようになり、東から登野城にアガリグヤ(東小屋)、石垣にナカグヤ(中小屋)、新川にイリグヤ(西小屋)を形成した。 サバニ(木造の小型漁船)を使っての伝統的な追い込み漁や素もぐり漁である。浜辺で水揚げされた魚は女性たちがバーキ(笊)に入れ、頭上にのせて街中を「イヨー コーンチョーラニー」(魚を買いませんか)と糸満アクセントで売り歩く姿が見られた。大川の市場には、魚の相対売り場があり、女性たちの威勢のいい言葉が飛び交っていた。 サバニはもともと帆かけであったが、昭和三〇年頃には、ほとんどがエンジン付に変わった。夕方ともなれば護岸通りには、漁から戻るサバニを待つ姿が見られた。護岸には豚の血をぬった漁網が干され、サメの油をぬったサバニが独特の臭気を放っていた。 字新川のはずれの真喜良にはカツオ節工場が建ち並び、バイカンヤー(焙乾屋)の煙突から煙が立ち上っていた。女工たちもおおぜい働いていた。工場は姿を消したが、登野城や新川の漁港には、今もサンパンと呼ばれている大型化したサバニの姿が見える。(文・三木健) |
| 牧場のある風景 | |
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| 牧場の垣と久宇良牧場遠景 〔昭和31年〈1956〉4月1日。明石集落南方から望む〕 写真提供・山里節子 |
放牧風景 〔昭和25年〈1950〉頃。平久保牧場〕 写真提供・牧野清 |
茅の覆う山並み、白砂に縁取られた海浜、それに続く澄んだ海、それらを背景に、山裾をめぐる石積みがあり、そのなかで、のどかに草を食む牛たちがいる。そんな石垣島の牧場風景は他の島じまでは見られない独特なものがある。 石垣島における牧場経営の歴史は古く、記録をひもといていくと、それをうかがわせる最も古い記録としては、オヤケアカハチの乱のあった一五〇〇年当時、平久保半島に平久保加那按司という族長的な人物がいて、牛馬を四〜五百頭も飼育していたという記述(『慶来慶田城由来記』)がみられる。 そのような古い歴史を刻む牧場の管理運営はマキィニンジュ(牧人数)といわれる人びとによってなされてきた。 それらマキィニンジュは時に石積みを補修し、時に火入れをなしつつ牧場とともに生きてきた。また、今でも、毎年旧暦の二月と九月にはマキィヨイ(牧祝い)と称し、牛馬の繁盛などを祈願する祝いを行なっている。その折には、勇壮な牛馬の追い込み風景が展開されるほか、訪れた人びとには、牧場ならではの牛汁が振る舞われ、かつては、その年に誕生した牛馬の所有関係を示すミンバン(耳判)付けの作業も行なわれていた。 長い牧場経営の歴史は、独特な風景をつくりだし、特色ある伝統的な習俗も生んできた。同時に、人里遠い環境は、動植物たちが息づく格好の場となり、絶滅の恐れのある貴重な植物が人知れず花を咲かせるなど、牧場の存在は在来種の保存の面でも大きな役割を果してきている。 山、海、人、牛馬、動植物が一体をなし、ゆるやかに時を刻んできた空間、それが牧場であり、今でも島の原風景をしのばせている。(文・松村順一) |
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| 竿秤と笊のある風景 | |
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| 竿秤と笊のある風景 〔昭和36年〈1961〉8月18日。公設市場〕 写真撮影・安藤萬喜男 |
路上での商い風景 〔昭和36年〈1961〉8月18日。公設市場付近〕 写真撮影・安藤萬喜男 |
魚売りのおばさんとカンタンフク(簡単服)姿の主婦と思われる二人が何やら深刻そうな顔で竿秤の目盛りに見入っている。 「姉さん、見て。こんなにシーブン(添分)してあるよ」「ほんとー、そうかねー」。そんな会話が交わされていたのであろうか。昭和三六年(一九六一)夏の公設市場付近の光景である。 当時の市場では、所狭しとバーキ(笊)を置き、我先に買物客に声を掛けて売りさばく商魂たくましい魚売りのおばさんをよく見かけたものである。 そして、昼下がりの市場には、サバ(草履)を履き、マチィティリィ(買物籠)をさげた主婦たちが、三々五々集まってきて、そこらの魚売りのおばさんたちなどに声を掛けられると立ち止まり、「ガチュンはあるねー。安めてくれるー。」と夕食の材料を物色していた。 よく見ると、店の軒先には、タマネギ、ゴボウ、センギリ(切干大根)、ニンニク、果物などが桶や木箱の上に並べられている。当時を知る人にとってはなつかしい光景である。 写真が写された時から、ほぼ四〇年の年月が経過し、公設市場の周辺も一変し、服装も店構えも、かつての面影はない。それに、路上の商い光景も見られなくなり、シーブンという言葉もあまり耳にしなくなった。 一昔前の生活ぶりが偲ばれる写真である。(文・松村順一) |
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| 手仕事の世界 | |
![]() 馬車の車輪製作風景 〔昭和38年〈1963〉頃。字登野城〕 写真撮影・有田静人 |
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| 籠を編む老人 〔昭和二五年〈一九五〇〉頃〕 写真提供・玻座真学 |
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生きることの必要に迫られ、身近な自然に材料を求め、無駄も華美もなく「用」だけが追求されて生まれた「生活道具」。そこにはその地域の気候、風土、伝統、文化、生活が凝縮され、生きる知恵と工夫があるといわれている。 戦後「もののない時代」といわれながらも、生活に本当に必要なものは、祖先から受け継いだ伝統と技法によって、身の回りの自然のなかから、祖先が行なった同じ方法で材料を見出し、無駄なく、こつこつとていねいに、ひとつひとつ作り上げられていった。 それらは、八重山を代表する民具、例えば、茅で作られた容器「ガイズ」であったり、裏庭に植えられたクバ(ビロウ)の木の葉から作られる蓑笠、竹で作られたいろいろな用途の籠類、豊かな森林からもたらされる材木で作られた箪笥、お膳、椀類などの生活道具、農耕に必要な犂、鍬、鎌、ヘラ、学校の机、黒板、腰掛。これらは、使う人の地域に合わせて微妙に違い、注文を取りながら作られた。 戦後は食糧増産に、換金作物のサトウキビ、パイン生産にと拍車がかかり、その運搬に馬車を持つ人が多くなり、それらの需要を満たすだけでも馬車屋は忙しかった。一時期、桟橋通りには木工業者が軒を連ねるほどであった。 線香も山に自生しているシロタブの樹皮を集めて地元でも作っていた。それは「線香ピリピリ」と言って親しまれたいた。三線も八重山特産の黒木を棹としたものに人気が集まり、また、歌の島、詩の国にふさわしく、たいていの家に三線があった。八重山上布はかつて人頭税として納めたものであるが、戦後、生地が手に入りにくい時期には男性の背広、ワイシャツに、また女性の簡単服に、観光土産にと織られた。 これらの手仕事は身の回りの自然と向き合いながら、その島独特の「もの」を作りあげてきたが、復帰後、生活用品などの流通が急激に変化するにつれ、ぬくもりを感じさせたそれらの「もの」が、気づかないうちにひとつひとつ消えていっている。 写真は手仕事のごく一部であるが、ほとばしる汗、音、笑い声、話し声が聞こえてくるようである。(文・内原節子) |
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