八重山士族の肖像

更新日:2020年03月06日

大川村士族・崎原當貴

大川村士族・崎原當貴
〔明治5年〈1872〉頃。長崎〕
写真提供・南嶋民俗資料館(崎原毅)

左の写真は大川村士族・崎原當貴で明治五年(一八七二)頃に撮影されたものである。當貴はメーラドゥヌジィ(宮良殿内)九世・宮良當恭の第四子として一八四六年(道光二六)に生まれた。一八六〇年(咸豊一〇)に元服し、崎原家に養子として入籍。崎原と改姓。翌年伊原間村耕作筆者、さらにその翌年竹富村の耕作筆者、明治九年(一八七六)には桃原目差となり、二年後大川目差に転じた。
  これより先、當貴は蔵元の筆者を兼ねていた明治五年(一八七二)当時、貢納船に乗って那覇から石垣へ帰る途中、暴風雨に遭い、流されて長崎に漂着した。どのような経緯があったのか子細は未詳だが、呉服店の番頭となって三年間滞在。その後、明治七年(一八七四)帰郷することができた。長崎滞在中に「ヤマトゥグチ」(共通語)も話せるようになり、『四書』『小学』などの書籍も買って持ち帰ったという。
  明治五年(一八七二)琉球藩が置かれ、同七年の台湾出兵、そして同一二年の「廃藩置県」、さらに翌年の宮古・八重山の「分島・改約」問題など、いわゆる「琉球処分」の時期に相当し、八重山でも上へ下への騒動が持ち上がっていた頃で、當貴は明治政府による新体制に非協力だとして処罰されたが、まもなく復職し、新川与人に昇進した。なお當貴は『目差役被仰付候以来日記』などの貴重な史料を遺している。
(文・崎山直)