近代教育の出発

更新日:2020年03月06日

大川尋常小学校の児童と職員

八重山島高等小学校・大川尋常小学校の児童と職員
〔明治34年〈1901〉。現在の登野城小学校敷地〕
写真提供・南西マイクロ

大川尋常小学校平得分教場の児童と職員

大川尋常小学校平得分教場の児童と職員
〔明治34年〈1901〉。現在の平得公民館敷地〕
写真提供・南西マイクロ

王国であった琉球が、廃藩置県によって沖縄県となったのは他府県より八年遅れた明治一二年(一八七九)のことであった。それを機に沖縄県は日本の一県として、各面で日本化(同化)の政策が推し進められた。とりわけ教育はその先がけをなし、翌一三年には、早くも県内に一四の小学校が設置され、同年、八重山でも教員養成のため、沖縄県師範学校速成科へ四人が入学させられるなど、その動きは強力で急なるものがあった。
  八重山で初めて小学校が設置されたのは、翌一四年のことで、石垣南小学校と称した。開校当時の学齢児童は四〇〇人を超えていたものの、進んで入学する者はなく、結局、選抜された男子児童三〇人を強制的に入学させている。教員は二人であった。入学児童が少なかった背景には、古くから各村学校で行なわれていた漢書の講読など旧慣を重視し、新しい学校での教科内容に対する根強い抵抗があったことと、やはり貧しい生活のなかで、子どもたちも貴重な労働力であったことなどが挙げられる。
  その後、小学校設置の動きは島じま、村むらに及び、明治一八年(一八八五)に与那国小学校が創設され、同二三年(一八九〇)には白保、平得、川平、西表に簡易小学校(分教場)が設置された。『石垣小学校沿革誌』は、その折のことを「平民ノ学ニツクコレヲ嚆矢トナス」と記している。
  教育勅語と御真影(天皇・皇后の写真)が下賜されたのも同年から翌年にかけてのことで、日本の南端の島じまでも国民皆教育とともに皇民化教育が学校教育のなかで大きな比重を占めていくこととなった。なお、女子が初めて就学したのは明治二六年(一八九三)のことである。
  写真は明治三四年(一九〇一)三月四日当時の八重山島高等小学校および大川尋常小学校の児童、職員である。『石垣小学校沿革誌』には「県下各学校ヨリ皇太子殿下ヘ献納スベキ学校職員生徒ノ写真ヲ撮ル」とある。(文・石垣久雄)