測候所の開設と電信屋

更新日:2020年03月06日

石垣島測候所最初の木造庁舎と宿舎

石垣島測候所最初の木造庁舎と宿舎
〔明治30年〈1897〉5月竣工。現在地〕
写真提供・石垣島地方気象台

デンシンヤー

崎枝にある海底電線陸揚施設(通称・デンシンヤー
〈電信屋〉)へ出張する郵便局の職員たち
〔昭和11年〈1936〉頃〕写真提供・森山泰子

八重山に初めて測候所が設置されたのは、明治二九年(一八九六)のこと。日清戦争で台湾が日本の植民地となり(明治二八年)、その翌年には台内航路(台湾と内地との航路)が始まったが、その安全をはかるため測候所が必要であった。
  当初は登野城村一二七番地(現在の字登野城二〇五番地)、桃原全能宅を借りて観測業務を開始したが、登野城の通称・糸数原(現在地)に木造瓦ぶき庁舎が建てられ、明治三〇年五月一日に移転した。島の人はこれをティンブンヤー(天文屋)と呼んだ。気象情報は日に三回、中央気象台や台北気象台に電送された。
  二代目所長の岩崎卓爾は瓦ぶき庁舎では風速五〇メートル以上の台風には耐えられないと判断、明治四二年(一九〇九)にレンガ造りの二階建て庁舎に改築。さらに、大正一五年(一九二六)にはコンクリート庁舎に。昭和三年(一九二八)には高さ三〇メートルの無線電信塔二基を構内に完成させ、人びとを驚かせた。二本のポールは石垣島のシンボルともなった。岩崎は昭和一二年(一九三七)六七歳で亡くなるまで八重山にとどまり、親しまれた。
  電信屋は測候所同様、植民地である台湾の統治に必要な電信網として敷設されたもので、明治三〇年(一八九七)に完成した那覇-石垣-基隆(台湾)間の海底電線の揚陸地である。屋良部半島の南側に位置し、石積みの防護壁とともに建てられた施設は、デンシンヤー(電信屋)と呼ばれた。電信は一般にも供用されたが、太平洋戦争で被弾し、その跡が今も残っている。(文・三木健)