南島を訪れた人びと

更新日:2020年03月06日

田代安定の八重山訪問

田代安定の八重山訪問
〔明治39年〈1906〉1月。大浜用要宅〕
右から大浜用要、田代安定、岩崎卓爾。
写真提供・須藤ハマ

島の古老たちからの聞き取り調査

島の古老たちからの聞き取り調査
〔昭和13年〈1938年〉5月27日。波照間島〕
右端から河村只雄、喜舎場永珣。
写真提供・河村望

八重山には早くから本土の文化人や研究者が訪れた。最初にその扉を開いたのは、鹿児島県の士族・田代安定である。農商務省の役人として明治一五年(一八八二)に訪れて以来、四度にわたって八重山の旧慣調査や人類学、あるいは植物学の調査をしている。民情調査を兼ねてのものだが、これが八重山研究の嚆矢ともなった。明治二六年(一八九三)に八重山各地を探訪した青森県士族・笹森儀助は『南嶋探験』に人頭税下の民衆の姿を活写している。一〇年後の明治三七年(一九〇四)には人類学者で東京帝国大学教授の鳥居龍蔵が訪れ、川平貝塚を発見している。
  大正時代に入ると同三年(一九一四)に御木本幸吉が真珠養殖を名蔵湾で始めている。同九年には宮島幹之助博士がマラリア調査で来島、同一〇年には日本民俗学の創始者・柳田国男が訪れ、岩崎卓爾や喜舎場永珣らと交流し、後に『海南小記』を著わす。翌一一年には東洋音楽の田辺尚雄、翌一二年には民俗学の折口信夫も訪れる。また沖縄県女子師範学校の美術教師をしていた鎌倉芳太郎も訪れ、権現堂・桃林寺の文化財調査をしているほか、本山桂川が民俗調査に訪れている。
  昭和に入ると、昭和七年(一九三二)に九州帝国大学の大島広教授が海洋生物調査で来島、台北高校の数学者・須藤利一は昭和九年に訪れ、喜舎場らと『南島』を発刊している。そのほか同九年に江崎悌三、同一三年に河村只雄らが訪れている。(文・三木健)