カツオ漁

更新日:2020年03月06日

カツオ節をつくる婦人

カツオ節をつくる婦人
〔昭和13年〈1938〉頃。鳩間島〕
写真提供・河村望

金栄丸でのカツオ漁風景

金栄丸でのカツオ漁風景
〔昭和13年〈1938〉6月1日。与那国島付近〕
写真提供・河村望

八重山でカツオ節製造のためのカツオ漁業が始まったのは、明治三〇年代の終わり頃とみられる。沖縄本島から来た糸満漁師が始め、後に宮崎県のカツオ業者もやってきた。石垣島四カ村(登野城・大川・石垣・新川)西方の真喜良一帯をはじめ、与那国、波照間、鳩間、小浜および尖閣諸島を基地に漁が行なわれた。カツオ漁は、五月から九月中旬頃までで、漁場は平久保沖、屋良部沖、白保沖、波照間沖、尖閣沖などであった。
  新聞記事によると、明治四〇年(一九〇七)のカツオ船は一二隻にすぎなかったが、大正三年(一九一四)には二〇隻となり、大正一三年(一九二四)には六〇隻にまで達している。カツオ節の移・輸出高も県全体の四分の一を占め、島の経済にも大きく寄与した。 昭和期になると、不況の影響や「南洋節」が出回るようになり、次第に不振となったが、太平洋戦争後は一時持ち直し、三三隻ほどの漁船が操業していた。それも昭和六〇年(一九八五)頃を境に下火になった。
  カツオ漁は一隻に数十人が乗り込み、工場では多くの女性が働いた。そうした工場が戦後まで真喜良一帯に十数軒並んでいた。古賀辰四郎が開拓した尖閣諸島の魚釣島には、古賀村ができた。戦後の食糧難時代にはカツーヤー(カツオ節製造工場)で処分されたカツオの頭が、人びとの食卓を潤した時代もあった。大漁旗を揚げ、夕陽を背に帰るカツオ船の雄姿は、久しく島の風物詩でもあった。(文・三木健)