戦前の石垣町風景

更新日:2020年03月06日

白い砂礫の道で遊ぶ裸足の子どもたち

白い砂礫の道で遊ぶ裸足の子どもたち
〔昭和初期頃。八重山郵便局北付近〕
写真提供・崎山寛宗

歴史を感じさせる端正な石垣と南国特有の白い道が続く 石垣町の風景

歴史を感じさせる端正な石垣と南国特有の白い道が続く
石垣町の風景〔昭和初期頃。字登野城、八重山島庁前、
現在の市立八重山博物館付近〕写真提供・崎山寛宗

白い道、屋敷囲いの石垣、フクギのある昼下がりの 住宅地風景

白い道、屋敷囲いの石垣、フクギのある昼下がりの
住宅地風景〔昭和11年〈1936〉頃〕
写真提供・須藤ハマ

石垣島の四カ字(登野城、大川、石垣、新川)は、横四号線から上のマフタネーと呼ばれる農村部、横四号線から南のシィムヌマーリィ(下の方)と呼ばれる士族の住む地区に分かれ、明治の廃藩置県後に、その南の市場通りに沖縄本島や内地からの寄留者たちが商店を開いた。そのまた南の海辺に糸満からやってきた漁師たちの集落が軒を連ねるようになる。さながら歴史のモザイクを見るようであった。
  マフタネーの家々はグスク(石垣)で囲われ、フクン(フクギ)の屋敷林に囲まれている。台風に備え、防風林として植えられたものだが、夏は涼風を呼び、冬は北風をさえぎった。成長したフクンは、次世代の建築用材ともなった。そんな風土が街の景観をつくりだした。
  赤瓦の家並みは、いまはコンクリートの建物に代わったが、マフタネーに残る石垣や屋敷林は、四カ字の街の原風景をしのばせている。(文・三木健)