アガリグヤ風景

更新日:2020年03月06日

リュウゼツランと民家

リュウゼツランと民家〔昭和9年〈1934〉7月3日。
字登野城のアガリグヤ〈東小屋〉〕
写真撮影・大島広

サバニと民家

サバニと民家 〔昭和9年〈1934〉7月3日。
字登野城のアガリグヤ〈東小屋〉〕
写真撮影・大島広

糸満からやってきた漁師たちは、四カ字(登野城・大川・石垣・新川)の海岸沿いに、明治二〇年代頃から定住するようになったが、俗にその集落を、東から字登野城のアガリグヤ(東小屋)、字石垣のナカグヤ(中小屋)、字新川のイリグヤ(西小屋)と呼んでいた。アガリグヤにおよそ五〇戸、ナカグヤとイリグヤに合わせて五〇戸の合計一〇〇戸ほどがあった。
  アガリグヤの集落には、家のまわりにアダンやリュウゼツランが生え、茅ぶきの小屋が肩を寄せ合うように並んでいた。村の東方には石灰をつくる窯が塔のように屹立していた。
  集落の前のリーフが、漁師たちの天然の漁港であった。棒をわたし四人でサバニをかついで陸揚げする姿が見られた。家のまわりの路地には、ヤトゥイングヮ(雇い子)が集団をなし、食事をとる姿も見られた。どこかわびしさの漂う漁村光景であった。そんなアガリグヤも、戦後、前の海が埋め立てられ、昔の面影は、もうなくなった。(文・三木健)