海と暮らし(戦前)

更新日:2020年03月06日

ヤトゥイングヮ(雇い子)たちを使っての追い込み漁

ヤトゥイングヮ(雇い子)たちを使っての追い込み漁
〔昭和11年〈1936〉頃。与那国島、祖納の湾内〕
写真提供・河村望

漁から戻ったウミンチュ(漁師)たちと待ち受ける

漁から戻ったウミンチュ(漁師)たちと待ち受ける
婦人たち〔昭和9年〈1934〉7月3日。
字登野城のアガリグヤ〈東小屋〉か〕写真撮影・大島広

堡礁に囲まれた島じまは、天然の漁礁を持っている。浅いリーフの内側は魚や貝や海藻を採り、暮らしに資する、さながら〃海の畑〃であった。
  そんな八重山の海にサバニ(木造の小型漁船)漁が行なわれるようになったのは、明治二〇年代に沖縄本島の糸満漁師がやってきてからである。初めは季節的な仮小屋であったらしいが、そのうちウミンチュ(漁師)たちは、定住するようになる。
  サバニから陸揚げされた魚は、女たちの手で市場や行商で街の人たちに売られた。糸満での夫婦分業の習慣が、そのまま持ち込まれた。こうした漁師の家は、戦前、百戸を数えたが、たいていの家には二~三人から多い家では五~六人もの「糸満売り」(身売り)されてきたヤトゥイングヮ(雇い子)が使われていた。その少年たちの数は三百人ほどいたという。戦後、児童福祉法上の人権問題となり廃止されたが、青い海は悲しい歴史も吸い込んでいた。 (文・三木健)