薪取り

更新日:2020年03月06日

薪を取り、家路につく人びと

薪を取り、家路につく人びと
〔昭和13年〈1938〉頃。与那国島〕
写真提供・須藤ハマ

「薪取り」の光景も今では、まったく見られなくなってしまった。実際、写真で見るしかない風物詩のひとつになってしまったが、戦前は女性や子どもたちに課されていたといってよい労働のひとつでタムヌトゥリといった。日曜日などに隣近所で誘い合い、めいめいが藁縄とヤマンガラシィ(山鉈)を持ち、腹ごしらえ用にとイモなどをアンツク(網籠)や風呂敷に入れて持参し、近くのバンナ山や前山などに出かけた。
  山ではメー(ちょっとした広場)を決めて持参した縄やアンツクなどを置き、さっそく各自思い思いに薪の採取に精出した。
  シィタマキー(エゴノキ)やカシィニキー(オキナワウラジロガシ)などは最上で、ヤマヌバン(山の番。アカハダノキ)と称された木は名の通り、山に捨て置かれた。枯木を適当な長さに切って集め、広場まで折返し運ぶ作業がしばらく続き、時間がくると互いに呼び合い広場で適当な大きさに縄で束ねた。
  男の子はシーマイ(後と前)といって薪の束を前後に即製の天秤棒で担ぎ、女の子は長めに束ね、頭上に乗せて運ぶ。力のある婦人や若者の運ぶ薪の量はずしりと重量感があった。
  山から家までの長い道中、適当な所で小休止するが、時々は待ち受けていた監守(林野監守)に呼び止められ山札の提示を求められた。一種の認可証であるその札なしに薪取りに行き、道中で監守に見つけられ大目玉をくらうことがままあった。(文・崎山直)