川良山道の改修

更新日:2020年03月06日

復旧した石垣白水線

復旧した石垣白水線
〔川良山南方付近〕
写真提供・山口盛弘

台風災害の復旧事業として整備が行なわれた 石垣白水線

台風災害の復旧事業として整備が行なわれた
石垣白水線〔昭和8年〈1933〉。川良山付近〕
写真提供・山口盛弘

「川良山道ぬ ねーぬらーばよ、山道ぬねーぬらーばよ」と馴染み深い民謡「川良山節」で歌われている川良山道。文字通り山と山の狭間を縫うようにして通るこの道が開通したのはかなり古い時代のことだ。すなわち一六五七年(順治一四)、当時頭職の要職にあり宮良橋の架橋で知られる宮良親雲上長重が川良山を境とする南部四カ村地域と北部名蔵平原や名蔵村とを結ぶ道がなく、山を迂回する不便を解消するため道路を開通させたことに始まると伝えている。
  当初は人馬がやっと通れる山道であったが、その後の名蔵開拓が進むのに合わせ、年々改修され馬車も通行するまでになった。しかし、この山道は山の南側付近を境に南北に降りる道路はともに傾斜していることから大雨のたびごとに土砂の流失や道路の崩壊がしばしばみられた。
  昭和八~九年(一九三三~三四)にかけては、四カ字の後方から川良山を経て名蔵に達する、当時、石垣白水線と称していた道路を一一、五〇〇円の事業費を投入し、林道として整備した(総延長一七〇〇間〈約三、〇九四メートル〉)。写真は改修工事当時のものである。
  戦後は、風雨の被害から馬車の通行に困難をきたしたため、昭和二一年(一九四六)当時の八重山民政府と石垣町役場では巨費を投じ、八千人余の労力と牛馬車三〇〇台を提供して大がかりな改修を進め、翌年には自動車を通すまでの道路として完成させた。
  なお道路沿いの山の断面には上質の灰色の粘土があり、かつては子どもたちが粘土細工用として採集する姿が見られた。戦時中は名蔵・白水方面への避難道路で人びとが行き交った。現在は、整備された県道浅田線として交通の要衝となっている。(文・崎山直)