大正、昭和初期の学校

更新日:2020年03月06日

小浜尋常高等小学校古見分校の児童たち

小浜尋常高等小学校古見分校の児童たち
〔昭和12年〈1937〉2月20日。西表島〕
写真撮影・大島広

島内一周修学旅行の子どもたち

島内一周修学旅行の子どもたち
〔昭和初期頃。宮良橋付近〕
写真提供・石垣輝子

明治三八年(一九〇五)に終結した日露戦争における日本の勝利は、国内に軍国主義の思潮を高めた。
  軍国主義の思潮は大正期に入ると、第一次世界大戦の勃発(大正三年)などによって、さらに大きなうねりとなり、日本の南端の島じま、村むらの学校現場にも押し寄せてきた。『石垣小学校沿革誌』には、海軍記念日に日本海海戦の実戦談が児童に披露されたことや、陸軍記念日に戦況や国民の覚悟が講話されたことなどの記事がみえている。
  明治初期以来の皇民化教育と新たに台頭してきた軍国主義の思潮は一方で、自由主義思想の台頭をもたらした。「大正デモクラシー」といわれた思潮である。その思潮は根強く、八重山の学校現場にも少なからぬ影響を与えた。特に自由主義の児童中心の教育観は「新教育運動」として展開された。先の『石垣小学校沿革誌』には郷土史の講座が設けられていたこと、子供会をつくったことなどがみえ、その影響を垣間見せている。
  しかし、大正時代を特徴づけた「大正デモクラシー」の思潮も大正一四年(一九二五)に思想信条の自由を弾圧する「治安維持法」が制定され、次第に、軍国主義の思潮が強化されていった。昭和七年(一九三二)に八重山で起きたいわゆる〃教員思想事件〃も「治安維持法」違反による検挙であった。
  そのような時代背景のなか、同六年(一九三一)の満州事変を機に、いわゆる〃一五年戦争〃へと突入し、学校でも文部省検定以外の教科書の使用が禁止され、いよいよ皇民化教育も徹底されるようになった。その時期、昭和八年に「ヤエマ幼稚園」、同九年に「八重山盲学校」、同一二年に「八重山農学校」がそれぞれ創設されている。
  そして、昭和一二年(一九三七)に勃発した日中戦争以降は、同一三年に「国家総動員法」が制定され、ひたひたと戦争の渦が身近に押し寄せるなか、同一四年に標準語励行運動が学校で徹底され、モンペや国民服が奨励されるなど八重山の人びとも皇国の民・軍国の民として、いやおうなく太平洋戦争へと向かっていった。(文・石垣久雄)