しのびよる戦争

更新日:2020年03月06日

八重山に初めて水上飛行機が不時着

八重山に初めて水上飛行機が不時着
〔大正10年〈1921〉5月10日。石垣港東方の美崎泊〕
写真提供・潮平寛吉

報国沖縄号の献納

報国沖縄号の献納
〔昭和8年〈1933〉5月〕
写真提供・宮城信勇

昭和六年(一九三一)の満州事変を機に戦争の渦が巻き始めた。「轟く万歳の声に送られ入営兵勇ましく出発」と入営兵三四人が桟橋から送られていく光景を報じたその頃の新聞報道だが、続いて昭和一二年(一九三七)の日中戦争の勃発はさらに大きな渦となって回り出し、戦時体制はますます強化された。市町村長会や学校校長会などでの奮起決議の宣言や各字での武運長久の祈願などが行なわれたことや、空襲は絶対あり得ないが非常時局下の国民として防空事項を心得ておくように等々の態勢も整えられていった。とはいっても、いつ果てるとも知らない日中戦争は泥沼的状態となって長期化の様相を示した。
  昭和一六年(一九四一)一二月、日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃、アメリカ太平洋艦隊に大打撃を与えたが、開戦を告げる大本営発表は沈滞気味の銃後の気風を一気に爆発させ、人びとは誇らしげな大本営の報道を熱狂的に迎えたのだった。緒戦の戦果報道も煽り立て、学校や町でも「愛国行進曲」や「大政翼賛の歌」、「月月火水木金金」等々の歌が盛んに歌われて戦意はますます高揚、時の流れは激しい渦巻きとなっていった。  (文・崎山直)