在郷軍人会による訓練

更新日:2020年03月06日

在郷軍人会による訓練

在郷軍人会による訓練
〔昭和14年〈1939〉頃。登野城尋常高等小学校〕
写真提供・花木章

在郷軍人会による補充兵の銃剣術訓練

在郷軍人会による補充兵の銃剣術訓練
〔昭和一五年〈一九四〇〉頃。記念運動場
〈現在の海星小学校敷地〉〕写真提供・潮平寛吉

在郷軍人(会)とは文字通り郷土に在住する軍人およびその団体(在郷軍人会)をさすが、通常は民間人としてなんらかの生業につき、戦争など必要に応じ召集される仕組みになっていた。戦前は一定の力を誇示する有力団体でもあった。
  八重山では明治四四年(一九一一)頃に結成されたとみられ、当時の新聞には「在郷軍人会八重山分会発会式」と見える。当初は寄留商人・実業家の有力者が分会長となったようである(ちなみに明治三九年〈一九〇六〉には一応の発足をみていた〈石垣町誌〉)。
  大正三年(一九一四)、これまでの八重山村が四村に分村したことにともない在郷軍人会も分立し、在郷軍人会石垣村分会、同大浜村分会、同竹富村分会などのようにそれぞれ分立発足した。その後「帝国在郷軍人会八重山郡連合分会」といった組織も成立したとみられる。大正七年(一九一八)当時の在郷軍人の数が県全体で二二、六一三人、うち八重山は九三六人という数字が知られている。
  在郷軍人会は地方にある唯一の軍人組織であることからその実情把握や訓練が重要視された。
  八重山でも郡下一斉調査が実施されたり、沖縄連隊区司令部、時には熊本第六師団による簡閲点呼や閲兵など随時行なわれた。また補充兵教育として五日間程度小学校校舎を利用した訓練も行なわれ、ほかに軍事映画の上映、非常呼集、防空演習、戦勝祈願や祝賀行列など先導的役割を担うなど戦時色が濃厚になるにつれ在郷軍人会の役割がますます強化された。(文・崎山直)