防火訓練・防空演習

更新日:2020年03月06日

隣組単位による防火訓練風景

隣組単位による防火訓練風景
〔昭和17年〈1942〉10月21日〕
写真提供・高木深證

万が一の空襲にそなえ、包帯を利用した応急処置の 訓練風景

万が一の空襲にそなえ、包帯を利用した応急処置の
訓練風景〔昭和17年〈1942〉12月5日〕
写真提供・高木深證

戦時中、主として住民を対象に行なわれた。昭和一三年(一九三八)頃から灯火管制が時々行なわれ、そのつど電灯の回りを小さな黒い布でおおい、光が洩れるのを防いだ。やがて「空襲必至」が叫ばれ、平素の防空・防火演習が行なわれるようになり、その実動隊として家庭防火群、各町村には警防団が組織された。また、各家庭ごとに庭の片隅に堅固な防空壕を造り、防火用水や防火砂、バケツ、長い竿の火叩き、スコップ、はしごなど常に用意しておくよう隣組や町内会を通じて伝えられ、防空演習も隣組で随時行なわれた。
  防空・防火演習は空襲時の焼夷弾による火災発生とその延焼を防ぐ消火活動を行なうのが目的で、演習の際にはサイレンが数回鳴りひびくなかで、防空頭巾をかぶった婦人たち、メガホンを持った班長たちが駆け回り騒然となった。しかし、空襲の実戦的経験がまったくなかったなかでの演習は、バケツのリレー式消火活動など今からいえば児戯にひとしいものであった。低空飛行して容赦なく機銃掃射を浴びせる空襲に逃げまどうのが精いっぱいだった。(文・崎山直)