武装解除と復員

更新日:2020年03月06日

旧日本軍の武器処分

旧日本軍の武器処分
〔昭和20年〈1945〉10月。石垣港〕
写真提供・大田静男

処分するために集められた75ミリと37ミリ砲

処分するために集められた75ミリと37ミリ砲
〔昭和20年〈1945〉10月。石垣港〕
写真提供・大田静男

米軍が初めて石垣島に進駐し、日本軍の武装解除(武器を強制的に取り上げること)が始まったのは昭和二〇年(一九四五)八月二九日であった。沖合に停泊した米巡洋艦から代表団長・ウッド大佐ほか約三〇人の将校が、銃を所持したわずかの部隊を率いて上陸、石垣港近くで日米双方による武装解除の会議が進められた。それは友好的な雰囲気のなかでなされたようで、武装解除も自主的に行なわれたといわれている。
  八重山における日本軍の終戦処理は、米軍の意向もあって宮崎武之旅団長の指揮統制により、大きな混乱もなく比較的順調に進められた。
  その武装解除が終わると復員事務(任務を解かれた軍人を帰郷させるための事務)が同年一〇月上旬から進められ、一一月五日に、その第一陣が帰還した。石垣港から帰還するありさまを当時の引き揚げ事務担当者は次のように述べている。
  「石垣港桟橋から沖合の復員船まで、曳き船に曳かれたダンベー船(団平船)が将校を満載して別れを惜しんで離れていくさまは感動的でした。『さらば石垣島よ、また来るまでは』という歌声も哀愁をおびて聞こえてきました。また、老若男女大ぜいの人々がいつまでも手を振って見送っていました」。
  こうして米軍の協力により復員兵約一千人が米大型輸送船で横須賀の浦賀に向かったのを皮切りに、同年末には海軍警備隊、翌四六年一月には旅団司令部要員が引き揚げ、第一陣の駐屯日本軍の引き揚げは完了した。(文・崎山直)