荷馬車からバスへ

更新日:2020年03月06日

トラックを改造したバスでの貨客の輸送

トラックを改造したバスでの貨客の輸送 〔昭和29年〈1954〉8月〕写真撮影・尾辻義人

石垣-白保間を定期運行していた東運輸株式会社の バスとトラック

石垣-白保間を定期運行していた東運輸株式会社の
バスとトラック〔昭和26年〈1951〉1月1日〕
写真提供・東運輸株式会社

戦前、陸上での貨客輸送にバスが活躍していたことはあるものの、その主役は荷馬車であった。
  戦後もやはり荷馬車は健在であったが、昭和二〇年(一九四五)に八重山通運社が設立され、元日本軍が使用した払い下げのトラックで貨客輸送を開始している。しかし、その後まもなく同社の業務は陸運事業として八重山支庁に引き継がれていった。
  昭和二一年当時は白保線と名蔵線が運行していたが、同二三年になって川平線も運行するようになった。その頃使われていたバスは、いすゝトラックを五〇人乗りに改造したもので、米軍政府からの配給物資(食糧、衣料、医療品、燃料、復興資材)なども輸送していた。
  ちなみに、昭和二五年(一九五〇)当時、貨客輸送用に稼働していた自動車および荷馬車は石垣市で自動車が二九台、大浜町で自動車が三台、荷馬車が六台、与那国町で自動車が一〇台、荷馬車が一台という数字が知られている(『新八重山』復興博覧会記念誌)。また、同年には初の法人組織である東運輸株式会社が設立され、民間のバス経営も本格的な稼働を始めている。(文・松村順一)