上水道の建設

更新日:2020年03月06日

通水試験の成功に沸く関係者

通水試験の成功に沸く関係者〔昭和28年〈1953〉4月7日〕 写真・『石垣市上水道誌』から

市内の配管工事

市内の配管工事
〔昭和28年〈1953〉頃〕
写真・『石垣市上水道誌』から

戦後第二代牧志宗得石垣市長の就任以来の抱負は上水道の建設であった。市民の保健衛生面や消防面からもぜひ必要であるとの信念にもとづく市長の英断だった。これは於茂登岳の水源から市街地に水を通すという画期的なもので、当然これを疑問視する者や反対を唱える人びともおり、さらに財政面でも巨額の費用が見込まれるところから、その前途は多難が予想された。事実、水源の探索でも絶望的な状態におちいった時もあった程だ。
  しかし市長は決して諦めず、当時の沖縄民政府に懇願し、専門技師による再調査を依頼、結局、白水の水源を発見したこと、さらに米国軍政府の理解と莫大な資金援助を得ることに成功したことは水道事業着工への見通しを確かなものとした。
  昭和二六年(一九五一)、資金調達の円滑を期して石垣上水道株式会社が設立され、翌年四月、中於茂登水源地で起工式を挙げ、翌二八年工事が完成、同年五月二九日の通水試験で遂に於茂登の水が野呂水浄水場に溢れ出るように流れた。まさに「歴史的な一瞬」であった。六月二〇日通水式典、翌二一日は市民祝賀の日とあって仮装行列などで終日賑わいをみせた。ちなみに総工費は、四、九九六万六、七〇七円(B円)であった。(文・崎山直)