開拓移住

更新日:2020年03月06日

規格住宅が立ち並ぶフタナカの入植地

規格住宅が立ち並ぶフタナカの入植地
〔昭和30年〈1955〉。現在の明石集落〕
写真・市史編集室蔵

シートーヤー(製糖所)で遊ぶ子どもたち

シートーヤー(製糖所)で遊ぶ子どもたち
〔昭和31年〈1956〉4月。平久保集落〕
写真提供・山里節子功

太平洋戦争が終わると、戦前から中国大陸や南洋など外地に住んでいた人たちがどっと沖縄に引き揚げてきた。沖縄はどこの村も人びとであふれ、食糧難さえきたした。そのため沖縄本島や宮古島の人たちは、新しい移住地として八重山にやってきた。なかには読谷村からの移住者たちのように、米軍基地建設で農地を奪われた人たちもいた。
  新天地を求めてきた人びとは、石垣島の北東部や、通称・裏石垣の各地に次々と入植し、新しい村を建設した。わずかばかりの身の回わり品を持って入植した人たちは、ジャングルに茅ぶきの仮小屋を建て、幾所帯かが合宿しながら木を払って焼き、畑地をつくってはイモなどを植えた。イノシシの害に悩まされ、マラリアが猛威をふるった。
  石垣の街とは一日か二日に一回訪れるトラックで結ばれていたにすぎず、医療施設のない開拓地では、しばしば犠牲者を出した。それでも入植者たちは力を合わせ、歯をくいしばって開拓に打ち込んだ。
  やがて学校を建て、共同売店をつくり、徐々に生活の向上を図った。パインブームで一息ついたものの、日本復帰前の長期干ばつや台風で村を去る人も出た。それにしても戦後の開拓移住は、王府時代以来の〃新村〃建設として歴史にその名をとどめた。(文・三木健)