人びとの暮らし-昭和30年代を中心に-

更新日:2020年03月06日

パインの収穫風景

パインの収穫風景 〔昭和38年〈1963〉8月。カラ岳付近〕写真撮影・久地岡榛雄

薪取りの帰り

薪取りの帰り
〔昭和30年〈1955〉12月。平久保集落付近〕
写真提供・山里節子

キーパイ(田鍬)で耕起する農夫と火入れの光景

キーパイ(田鍬)で耕起する農夫と火入れの光景
〔昭和31年〈1956〉頃。川原集落の北方付近〕
写真提供・山里節子

川での洗濯風景

川での洗濯風景
〔昭和28年〈1953〉西表島、古見集落〕
写真撮影・酒井卯作

昭和三〇年代(一九五五年~六四年)は、旧来の農業社会が大きく変貌をとげた時代である。三〇年代前半は、まだ社会の各面に戦前の名残をとどめていた。主産業の農業ではまだ稲作が残っており、それにともなう文化も残っていた。
  農家は馬や馬車で畑に通い、ユイ(結・相互扶助)にも従事した。畑では馬耕も行なわれ、屋敷内では黒豚を飼っていた。イモがまだ主食の時代で、家庭の主婦は井戸水で炊事をし、カマドで薪をたいて煮たきをした。
  それが昭和三〇年代後半になると、農業や生活に変化が見られるようになった。稲作はサトウキビ作に変わり、山地ではパインが栽培され、空前のブームとなった。小型製糖工場やパイン缶詰工場が次々と設立された。畑にはトラクターも導入された。工場で働らく人たちが不足し、台湾や韓国から女工が季節労働者として導入された。一方では本土の高度経済成長で、中学卒業生の集団就職で本土に出て行く若者も増えた。
  通貨(軍票)のB円が昭和三三(一九五八)年にはドルに切り換えられ、八重山もドル経済圏に組み込まれた。アメリカの沖縄支配が、ドルを通じて浸透した時代でもあった。(文・三木健)