海と暮らし(戦後)

更新日:2020年03月06日

沿岸で網漁をする漁夫たち

沿岸で網漁をする漁夫たち 〔昭和31年〈1956〉頃。屋良部半島〕写真提供・山里節子

水揚げされたカツオの浜での解体作業風景

水揚げされたカツオの浜での解体作業風景
〔昭和34年〈1959〉8月。波照間島〕
写真撮影・久地岡榛雄

石垣の四カ字(登野城・大川・石垣・新川)には、明治二〇年代末から沖縄本島の糸満からやってきた漁師が、浜辺に小屋を建て漁をしていた。それが次第に定住するようになり、東から登野城にアガリグヤ(東小屋)、石垣にナカグヤ(中小屋)、新川にイリグヤ(西小屋)を形成した。
  サバニ(木造の小型漁船)を使っての伝統的な追い込み漁や素もぐり漁である。浜辺で水揚げされた魚は女性たちがバーキ(笊)に入れ、頭上にのせて街中を「イヨー コーンチョーラニー」(魚を買いませんか)と糸満アクセントで売り歩く姿が見られた。大川の市場には、魚の相対売り場があり、女性たちの威勢のいい言葉が飛び交っていた。
  サバニはもともと帆かけであったが、昭和三〇年頃には、ほとんどがエンジン付に変わった。夕方ともなれば護岸通りには、漁から戻るサバニを待つ姿が見られた。護岸には豚の血をぬった漁網が干され、サメの油をぬったサバニが独特の臭気を放っていた。
  字新川のはずれの真喜良にはカツオ節工場が建ち並び、バイカンヤー(焙乾屋)の煙突から煙が立ち上っていた。女工たちもおおぜい働いていた。工場は姿を消したが、登野城や新川の漁港には、今もサンパンと呼ばれている大型化したサバニの姿が見える。(文・三木健)