手仕事の世界

更新日:2020年03月06日

馬車の車輪製作風景

馬車の車輪製作風景
〔昭和38年〈1963〉頃。字登野城〕
写真撮影・有田静人

生きることの必要に迫られ、身近な自然に材料を求め、無駄も華美もなく「用」だけが追求されて生まれた「生活道具」。そこにはその地域の気候、風土、伝統、文化、生活が凝縮され、生きる知恵と工夫があるといわれている。
  戦後「もののない時代」といわれながらも、生活に本当に必要なものは、祖先から受け継いだ伝統と技法によって、身の回りの自然のなかから、祖先が行なった同じ方法で材料を見出し、無駄なく、こつこつとていねいに、ひとつひとつ作り上げられていった。

籠を編む老人

籠を編む老人
〔昭和25年〈1950〉頃〕写真提供・玻座真学

それらは、八重山を代表する民具、例えば、茅で作られた容器「ガイズ」であったり、裏庭に植えられたクバ(ビロウ)の木の葉から作られる蓑笠、竹で作られたいろいろな用途の籠類、豊かな森林からもたらされる材木で作られた箪笥、お膳、椀類などの生活道具、農耕に必要な犂、鍬、鎌、ヘラ、学校の机、黒板、腰掛。これらは、使う人の地域に合わせて微妙に違い、注文を取りながら作られた。
  戦後は食糧増産に、換金作物のサトウキビ、パイン生産にと拍車がかかり、その運搬に馬車を持つ人が多くなり、それらの需要を満たすだけでも馬車屋は忙しかった。一時期、桟橋通りには木工業者が軒を連ねるほどであった。
  線香も山に自生しているシロタブの樹皮を集めて地元でも作っていた。それは「線香ピリピリ」と言って親しまれたいた。三線も八重山特産の黒木を棹としたものに人気が集まり、また、歌の島、詩の国にふさわしく、たいていの家に三線があった。八重山上布はかつて人頭税として納めたものであるが、戦後、生地が手に入りにくい時期には男性の背広、ワイシャツに、また女性の簡単服に、観光土産にと織られた。
  これらの手仕事は身の回りの自然と向き合いながら、その島独特の「もの」を作りあげてきたが、復帰後、生活用品などの流通が急激に変化するにつれ、ぬくもりを感じさせたそれらの「もの」が、気づかないうちにひとつひとつ消えていっている。
  写真は手仕事のごく一部であるが、ほとばしる汗、音、笑い声、話し声が聞こえてくるようである。(文・内原節子)