定期バスの運行

更新日:2020年03月06日

旧道を走るバス

旧道を走るバス
〔昭和32年〈1957〉10月頃。大里集落付近〕
写真撮影・石垣佳彦

山田バスの白保線開通祝賀会

山田バスの白保線開通祝賀会
〔昭和37年〈1962〉。字白保〕
写真提供・山田昇

石垣島で自動車による定期運行が始まったのは昭和五年(一九三〇)の石垣(四カ字)-白保間が最初である。その後、昭和七年に八重山自動車商会に引き継がれたが、戦時下に入り、燃料の入手難で、同社の糸洲長勝が昭和一八年頃、木炭車を走らせ、それも難しくなると客馬車を走らせて路線を守り続けた。
  戦後、昭和二五年(一九五〇)に大浜町などの出資により糸洲を中心に東運輸株式会社が設立され、バス(国産のいすゞ自動車)二台、トラック二台で石垣-白保の間を一日五回運行した。白保以北は戦後の一時期まで車の通れる道がなかったが、戦後、米国軍政府によるマクラム道路が開削されたため、昭和二九年(一九五四)から伊原間線が開設され、移住地の集落を結ぶようになった。
  北側の川平-伊原間間の通称・オグデン道路も昭和二八年(一九五三)に完成し、石垣島の一周道路ができたことから昭和三一年には東回り線や西回り線が日に二回運行するようになった。昭和三四年から山田バスも参入したが、五年後に東運輸株式会社に吸収合併された。
  一周線が開通したとはいえ、舗装もされていない悪路で、雨降りはぬかるみ、急な坂を登るのにひと苦労であった。それでも移住地の人たちには欠かせぬ足であった。その後、三和線や平野線も新設され、昭和四一年(一九六六)には美崎町にバスターミナルも建設された。(文・三木健)