石垣港桟橋とはしけ

更新日:2020年03月06日

干潮時、桟橋で遊ぶ子どもたちと離島航路の船

干潮時、桟橋で遊ぶ子どもたちと離島航路の船
〔昭和33年〈1958〉頃。石垣港桟橋〕
写真撮影・津野力男

はしけに乗って本船に向かう人びと

はしけに乗って本船に向かう人びと
〔昭和36年〈1961〉7月。石垣港地先〕
写真撮影・有田静人

港は人びとが島から出たり入ったり、島の産物や日常生活物資が集まる、いわゆる物流の拠点である。それに情報の流入口であり、文化の取り入れ口でもある。
  石垣の港は、昭和一〇年(一九三五)に石垣町が建設した一本の突出した桟橋を戦後も使用していた。まわりが浅瀬のため、那覇間の大型・中型船は沖での停泊を余儀なくされ、貨客の積み下ろしは団平船によるはしけで行なわれた。海がしけると危険がともなった。離島各地の小型船舶も、この桟橋を拠点に放射状に結んでいた。ほとんどが焼き玉エンジンによるいわゆるポンポン船であった。
  大型船の接岸可能なバースの建設は、長年の郡民の強い要望であったが、ようやく昭和三七年(一九六二)五月に、二千トン級の船舶が接岸可能なバースが完成し、翌年六月一日には盛大な開港式が行なわれた。その後も浚渫船「さざなみ号」による航路浚渫と埋立地造成工事が継続され、昭和四〇年(一九六五)には新石垣港が実現した。
  岸壁から直接本船に乗船した人たちは、その喜びをかみしめた。人びとは五色の紙テープを投げ、別れを惜しんだ。若者は就職や進学へと旅立っていった。そんな港の光景も今は昔の思い出となった。(文・三木健)