一周道路の開通

更新日:2020年03月06日

石垣島一周道路開通記念車両パレード

石垣島一周道路開通記念車両パレード
〔昭和30年〈1955〉11月12日〕
写真提供・山里節子

車両パレード、式典会場到着

車両パレード、式典会場到着
〔昭和30年〈1955〉11月12日。野底小学校〕
写真提供・山里節子

「裏石垣の村々に挙る感激の嵐 十五台の車両つらね 一周道開通お祝いの行進」
  昭和三〇年(一九五五)一一月一三日、『八重山毎日新聞』紙上を飾った一周道路開通式典における車両パレードを紹介した見出しである。待望久しい一周道路の開通で喜びに沸く移住地区住民をはじめ市民の歓声が聞こえてくるようだ。
  そこに至るまでの経過をひもとくと、昭和二二年(一九四七)米国軍政府援助による〃初見参〃のブルドーザー、グレーダーなど機械力の導入で「マクラム道路」の開削が、わずか五六日という短期間で完成したことに一周道路開通へ向けた足がかりが築かれた。次いで昭和二四年(一九四九)からは川平を起点とした「オグデン道路」の開削が着手された。
  しかしながら密林とヤマバレー渓谷、さらにマラリアなどに阻まれて工事は難渋、そのうえ、与那国の道路開削に機械力がまわされ、一時中断を余儀なくされたが、昭和二八年(一九五三)六月、オグデン民政副長官の八重山初視察、資金援助を契機に工事は大きく進展、同年一二月、川平-米原間が一応の完成をみ、その後、二年の歳月を要して川平-伊原間間の裏石垣道路が完成し、ようやく一周道路の開通をみた。
  開通以前、川平-伊原間間には山道はあったものの断続的で、しかも人馬がかろうじて通れる程度であり、当時、続々と裏石垣の地に入植していた人びとは、人力はもとよりクリ舟や時にはクイチィ(越道。山越えの道)を利用するなど日用品の調達に難儀した。そこに迎えた新道の開削は、移住地区住民にとって、なによりの〃贈り物〃となり、パインブームへとつながる移住地区発展への大きな契機となった。(文・松村順一)